個人であることの責任、あるいは「主体性」について

卒業式の後、東京の大学院に行く学科の友人*1とご飯を食べて酒を飲んで話したりしたこと。
友人曰く、

互いに「自分の意見持ってる」ことがわかっているなら、衝突しても大丈夫だし、というか話(議論)する気ならそのような認識のもとするべき。
他人の意見にツッコミ入れるわりに「自分の意見はない」は卑怯。それなら認識君で突き通すべきでは。
自分の立場・態度を示すことは、数ある絶対的でないとわかっているものをその人の意思でもって選択すること(既に行ってきた選択に責任を持つこと)で、それは「主体」であることに必要であって、「個人」として、責任をもって他者と関係して生きていく態度か。
友人にそのような覚悟が見えて、潔さと責任の意識を見た。僕は大事なことを教わったのだ、と素直に感激していた。(そして自分が恥ずかしくて仕方なくなった)

*1:友人は「部屋に飾る写真が欲しい」と言っていた。爽やかで柔らかなものが良いということで、桜の写真なんて良いんじゃないか、と思ったけど、北海道では5月に咲く花なのだった。待っていてくれるだろうか。