今年初登校。ここでは雪が降るときは何故か天気が良いのでとても冷える。
講義が小熊英二とかタイムリーな話題を扱っていることに気付く。(専攻の方針に合わせる必要がないだろう一般教養の講義はだから面白く感じるのかもしれない)

研究室で先生と相談。研究計画書を書き起こして来週火曜日に一度見てもらうことになった。写真作品のプリントも持っていく。(作品を見てもらうというのはやはりどきどきする)

卒業論文執筆の過程や先月末の締切=一旦の区切りで実感したのは、僕がこの学部生活で最も執着し成果しようとしていたものは(写真)作品の制作だった、ということだった。「執着」(あるいは「没頭」と言い換えられるかもしれない)できるかは意識的に「努力」して獲得できることではなく、活動の原動力となるものであって、この対象を今ようやく相対的に捉え判断できる状態になった、と言えるかもしれない。

「考えること」や「実感すること」はどちらのアウトプット(論文/作品)にも関わることだが、前者(論文)は明確な「答え」の導出を目指し記述=細分化するものであるのに対し、後者(作品)は法記号的な次元を質に還元することで余白を生み「問い」かける(外因的である与件がある場合には、それと環境との「答え」とも言える)ものであるのだと思う。(つまり出力することで何を為したいのか、がその社会的な価値の定位に関わる。アウトプットは社会にとってリソースとなり得る価値を判断され得るもの)

僕は作品制作のプロセスの中で「問い」を出力しながら考えてきたのだった。「問い」の出力といくつかの「答え」によるフィードバックからの更新、そしてまた別の軸においての文脈接続によって発見される「問い」。つまり「作りながら考えて」いるようだ。(その問いかけの土台を知り、それ=コンテクストを掌握し常に積み重ねていかなければならないと実感したのが、卒業論文の作成に取り掛かった今年度であったように思う)

つまりその原動力=執着の対象はやはりどうやら「問い」かけること/作品制作であったようだ、という分析に至ったのだった。これが判っただけでもふらふらせずに集中、注力できる。全力を注ぎ込む。